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リマインズ新聞より抜粋「コラム集」

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semスキン用のアイコン01 2017.10.7 @横須賀 かぼちゃ屋 semスキン用のアイコン02

  

2017年 10月 07日

2017年10月7日。横須賀かぼちゃ屋にて。今日も来てくれたみんなありがとう。俺は横須賀という街が100年前から好きだったので、こうしてまた憧れの地に来れて嬉しいです。今横須賀に向かう車内にて、今日はあまり天気が良くないから海でBBQもできないし、街でショッピングもできないけれど、ライブはしますね。

過ぎ去ったものが、「過去」。未だ来ていないものが、「未来」。現に存在するものが「現在」。すなわち現在以外は、過去も未来もすべて現に存在してないもの、というわけだ。ということは過去も未来も全てイメージの世界。今あるのは現在のみ。改めてそんなことを考える。横須賀のことを考えるといつもそんな過去と未来における時間軸みたいな妄想のような現実に向き合ってしまう。その理由は俺はなんとなくわかるけど、それは俺の中の秘密。

例えば過去に何かの分野でとてつもなく活躍した有名人がいたとして、今はもう活躍も人気も落ちぶれてしまったとして。その人が今俺の目の前に現れたとする。「この人今はもう何でもない人だ」、「この人は過去の人だ」なんてことは俺には思えず、「過去にあんなに活躍してたあの有名人の現在だ」、と思う。「今、目の前のこの人がまさにあの過去を持っている人だ」と。「現在が全てなのだから、過去のことはどうでもいい」ではなく、「過去を通り抜けて来たその現在が全てだ」という感覚。似ているようで全然違う。そもそも現在が全てだ、なんて言わずとも、現在が全てに決まってる。現在しか現に存在してないのだから。その現在には、ここにたどり着くまでの過去がちゃんと含まれているってことだ。含まれているっていうか、溶け込んでいる、という感じか。

歴史的な城とか寺院とかに訪れても同じ感覚になる。かつてあの武将やあの僧侶がここにいたのか、とか。歴史的な骨董品や楽器とかを見ても同じ感覚になる。かつてのあの時代やあの空気をくぐり抜けてきたのか、とか。歴史的な老人や海や空を見ても同じ感覚になる。かつてのあの戦争やあの世の中を体感してきたのか、とか。歴史的な横須賀の街やかぼちゃ屋を見ても同じ感覚になる。かつてあのアーティストやあのライブを見てきたのか、とか。

あえて「歴史的」なんて言葉を使ってみたけれど、1秒でも過去があれば産まれたての赤ん坊だって歴史的なものだ。ということは俺たちも俺たちの周りにあるものも全てが歴史的であり、その「過去」が溶け込んでいるのが「現在」なのだ。今あなたの目の前で起きていること、今あなたの目の前にあるもの、それが「現に存在する」全て、それだけだね。

横須賀に来るとなぜかそんなことばっかり考えちゃう。大好きな街だ。また来るね。今日もライブ見に来てくれてありがとう。

by dreamingofyou | 2017-10-07 00:00 | 竹内